魔法少女モノアニメの歴史と、『魔法少女まどか☆マギカ』

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この原稿は、三才ブックスから刊行された『超解読まどかマギカ』収録の原稿です。魔法少女アニメの歴史から魔法少女まどか☆マギカについて語ったもので、映画公開記念に期間限定で公開いたします。まどか☆マギカを振り返り、新たな物語を確認する際の補助線になれば幸いです。

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■魔法少女モノアニメの歴史と、『魔法少女まどか☆マギカ』

●久保内信行

 『魔法少女まどか☆マギカ』は題名に「魔法少女」というジャンルを冠して発表された。事実、使い魔であるキュゥべえと契約して魔法少女に変身して敵である魔女と戦うという外見は、確かに「魔法少女モノ」といえる。

 しかし、視聴者側から見ると従来のいわゆる土曜日曜の朝に放映されている女の子向け魔法少女モノとは趣きを異にしているように感じられた『まどか☆マギカ』。一年間というロングスパンの中で愛と魔法の力をもって敵をやっつけていく話とは異なり、魔法少女たちが毎回命がけで戦う姿というのは、普通の魔法少女モノと呼ばれるアニメでは考えられない事態だった。彼女たちは他の魔法少女たちと違い、傷も生々しく描かれ、出血もするのだ。

まずは、魔法少女モノ作品の歴史をおさらいしつつ、次に『まどか☆マギカ』がその中でどのような位置を占める作品なのかを考えていこう。「※あとで埋めます」ページに掲載した魔法少女モノ作品の歴史年表と併せて読んでいただけると幸いだ。

■1 魔法少女モノアニメ黎明期

 日本ではアメリカの実写ドラマ『奥さまは魔女』の大ヒットを受けて製作が始まった魔法少女モノアニメ。国内の魔法少女モノの元祖といわれているのは1966年の『魔法使いサリー』だ。そのストーリーは、魔法の国のお姫様サリーが魔法の世界の生活に飽き飽きして人間界に降り立ち、さまざまなことを見聞しながら人助けをするというもの。この作品の大ヒットを受けて、以降東映動画による魔法少女作品として『魔法のマコちゃん』、『魔女っ子メグちゃん 』、『魔女っ子チックル』、『花の子ルンルン』、『魔法少女ララベル』、『魔法使いチャッピー』などが生み出される。

 これらの作品は出自がほぼ魔法の国のお姫様や魔法使いの子供などで、普通の人間の子供ではないことが特徴だ。また、魔法能力は特に限定されず万能なものであることが多い。その中でとりわけ多く描かれるのが、魔法を使うことで体が成長して職業コスチュームに変身し、人助けをおこなうというものだ。

 これらの物語の中の「主人公は通常の人間とは違う魔法の国のお姫様など特別な出自を持つ女の子である」という設定は、当時の少女マンガの王道パターンから持ってきたと考えられる。当時の少女マンガでは外国を舞台にした恋愛物語が多く、主人公は金髪碧眼のお姫様であるケースがよく見受けられた。読者の少女たちは一時の間、自分がお姫様であればどんなに楽しいだろうという目でそれを眺めていたのだ。

 余談だが、1967年に発売されたリカちゃん人形の設定は、イギリス人とのハーフで金髪。海外旅行も自由にできなかった時代の黒髪の日本人にとって異国のお姫様は憧れの存在だったのだ。
 次に「職業婦人への変身」で、女の子は将来なりたい夢を毎回叶えていくことになる。当時は、現在のOLの意味で使われる「ビジネスガール」という言葉が流行、女性の社会進出への願望の高まりが背景にあった。魔法を使えば自分が望む憧れの職業になれる、その設定には大きな夢があった。

 また、少し話が戻るが、女の子たちは特別な主人公に自分自身を投影するため、物語に登場する魔法少女は基本的に単独となる。これも特徴のひとつと言えるのではないだろうか。

 以上のように黎明期の魔法少女モノには、お姫様の市中見学中に少し不思議で素敵な事件が毎回現れるというエブリデイマジックの構造が見られる。魔法少女とは女の子の理想の姿であり、魔法で子供であることの制約を振り払うことができる。また魔法そのものは、主人公の出自の特別さを根拠に置くことが多かったことが確認できる。

■2 普通の少女が魔法少女へ変身する

 こうした「お姫様が市中見学をする」という形式の魔法少女に代わって主流になっていったのが、スタジオピエロによる魔法少女モノだった。『魔法の天使クリィミーマミ』、『魔法の妖精ペルシャ』、『魔法のスターマジカルエミ』、『魔法の少女パステルユーミ』などの作品だ。

 前述の魔法少女モノとの共通点は、大人に変身してトラブルを解決していくという形式だ。そして一番の大きな違いは、主人公の女の子が普通の一般人であること。一般人が何かのきっかけで魔力を授かり魔法を使えるようになるのだ。

 主人公がお姫様という憧れの世界の住人から一般人にかわることで、物語の使命や目的も、単純な人助けや女王になるための修行といったものから、個人の夢、人助けを通して自分の夢も叶えるという形へと変質していく。これは『クリィミーマミ』なら1年間の期間限定でアイドルとして活動することで表現され、『マジカルエミ』はマジシャンとしてアイドルデビューするという形で示される。また作劇上、大きな変化がもうひとつある。

 それは主人公の女の子の恋愛描写が大きく取り上げられるようになったことだ。お姫様から一般人へ、主人公が身近な存在になっていくことでクローズアップされていく要素が恋愛要素だ。ちょうどこの頃、少女コミックはラブコメ大ブーム。憧れの国のお姫様の憧れの生活を追体験するよりも、学校の憧れの先輩への恋愛が少女の身近な話題になってきたことを受けてのものだろう。

 そういった目線で見ると、1969年に放映された『ひみつのアッコちゃん』はコミカルに人間を描くギャグ漫画家・赤塚不二夫原作のアニメで、この作品が「一般人の女の子が魔法を授かる」という設定になったのはけっこう示唆的だ。その後1990年までは、この「魔法の国のお姫様」ラインと、「一般人が魔法少女になる」ラインとが並行して進む。前者が小学生低学年まで向けに、後者が小学生高学年以上向けにと分類され放送されていく。

 この2つの魔法少女モノの分類を自覚的に作品に取り入れたのが『魔法のプリンセスミンキーモモ』だ。1982年の初代ミンキーモモ、通称・空モモの最終エピソードではモモは死んで転生することでしか普通の女の子になることはできなかった。

 また2代目の通称海モモでは、今までの「お姫様」と「一般人」という2つの潮流をまとめた問題も扱っている。それは視聴者の少女たちを夢の国へ連れて行く絶対的な存在であるはずの、魔法そのものに対する問題意識だ。海モモの主人公は夢の国のプリンセスが先代の名を継いで地上に派遣されるのだが、徐々にシリアスなエピソードが増えていき、人間界に生まれ変わり一般人となった先代モモと出会うことにもなる。そこで海モモを待っていたのは、「夢は魔法では叶えられない」という現実だった。

 さらに海モモは、両親が実は不治の病に犯されており、海モモの存在自体が両親の叶わぬ夢そのものだったことを知ることになる。最後に海モモは行き詰った魔法と夢の存在に悩んだ結果、夢を信じ地球に残ることになる。モモは魔法の力を失い地球で静かに暮らしてゆく。

 ここでは魔法少女という表現形式が描いた少女の夢の限界と、それでも生きていく一人の人間としての海モモの成長が描かれている。魔法少女のもつ「魔法」を巡る問題意識はここで一応の結論に達したわけだ。その後の作品では魔法少女にとっての「魔法」は存在意義そのものではなくなっていき、お話を盛り上げるためのツールとして使われるケースが増えていった。

 この問題意識を引き継いだのが『ナースエンジェルりりかSOS』だ。普通の少女と思われていた主人公の少女りりかは、実は先代のナースエンジェルの生まれ変わりであり、体内に封じ込まれた命の花を開放、つまり自らを犠牲にしなければ世界を助けることはできないことを知る。最後は自らの誕生日パーティのあとに自死するという悲劇的なストーリーが展開された。

 このとき、一般人の女の子が変身する魔法少女は変わらず女の子の理想の姿ではあるが、魔法の国を出自とする魔法少女に比べて身近になっている。魔法の力は子供であることの制約を振り払うことができるという点で同じだが、出自が特別ではなく生まれながらの魔力を持たない彼女たちには、必然的に魔法の限界<まどか☆マギカ風にいうと代償>が求められた。それはもっとも悲劇的なものでは主人公の命でもあったし、一般的には自らの少女性・処女性でもあった。魔法少女が魔法を使えるのは、成長しきっていない少女なればこそなのだ。

 魔法少女のほとんどは、魔法の助力を受け少女時代の夢を叶えたために魔法が必要なくなり、大人の女性になっていくという道筋を歩む。苦悩の末、魔法を失った普通の女性として余生を過ごすことになるミンキーモモも例外ではない。

■3 戦闘美少女 セーラームーン登場

 「魔法少女モノ」が次に大きなターニングポイントを迎えたのは、90年代に放送された『美少女戦士セーラームーン』だ。この作品のもっとも大きな特徴は、登場する主人公格の魔法少女(美少女戦士)が複数であること。それぞれ個性の違う彼女たちは、友情を確かめ合ったり、時には反目し合いながら敵に立ち向かっていく。

 物語設定は、当初は従来の魔法少女モノに沿った形式を踏襲するが、大ヒットしてシリーズ名を変えながら4年以上にわたり放送する中で拡大を続ける。例として「前世の因縁」や、ちびうさの突然の来訪による「落ちモノ」要素に始まり、果ては「未来からのタイムリープ」、外宇宙から太陽系そのものを飲み込む「混沌との戦い」までもが描かれる。当時流行のオカルト・伝奇・SFの要素を毎回貪欲に取り込み、それらを友情の力で乗り越えていくという物語構造は、少年漫画のバトルものと相似形だ。そこでは、美少女戦士たちがなぜ魔法を持つようになったのかという内省的な問いは影を潜め、魔法という力でいかに強大な敵と立ち向かうかに描写が大きく割かれている。魔法の力の発現もこれまでの魔法少女が自分の姿を変えたりケーキを出したりしていたのに代わり、敵を叩きのめす力として武器化するのだ。

 原作者の武内直子は『美少女戦士セーラームーン』を、男子児童を対象にした実写戦隊特撮モノや、その影響をうけて発表された美少女特撮モノである『美少女仮面ポワトリン』などからの影響があると語っている。この構造の作品として、他に『魔法騎士レイアース』などが続いた。

 これらの作品は、以前の魔法少女モノを前提としつつ、女性児童向け少女マンガを設定の源流にしていた前の世代の魔法少女モノとの断絶を、特徴として見ることができる。ここから、少女マンガの文脈の延長だった魔法少女モノが、独立した流れになっていったと捉えることもできるし、女性の求める物語が、幸せなお姫様から素敵な恋愛、大人になって夢を叶えたいといったものを経て、男性的な物語をも支持するようにもなったと分析することも可能だろう。

 しかし、特に強調しておきたいのは、「魔法少女モノ」が、物語の構造が少年マンガ的なものに変わっても、変身シーンやお助けキャラなどの外見的な要素が揃っていると魔法少女モノだと認識されるようになったということだ。「魔法少女モノ」がフォーマットとして自立したことがうかがえる。結果『セーラームーン』以降、女性向け男性向けを問わず「魔法少女モノ」のパロディが氾濫することになる。

■4 パロディの題材としての「魔法少女モノ」と、魔法少女リリカルなのはシリーズ

 『美少女戦士セーラームーン』以降、魔法少女モノのパロディとして、その世界観を利用した魔法少女モノが多く放送されるようになる。『カードキャプターさくら』は、一般人の少女が魔法の力で魔法のカードを収集するストーリーに、憧れの先輩も登場するなど、正統派の魔法少女モノの系譜の作品だ。しかし、毎回変身するコスチュームはクラスメイトのお手製で、着替え後の戦闘シーンなどもビデオで撮影され、クラスメイトのコレクションになるといったアレンジが施されている。メインストリームの作品でも、「魔法少女モノ」の形式自体をパロディにするという態度が顔を出すようになるのだ。

 また純粋なパロディものだと、男性向けアニメ『天地無用!』のキャラクターを用いたスピンアウト企画『魔法少女プリティサミー』などをその代表として挙げることができる。人気シリーズの幼いサブキャラクターを主人公に据えて、「魔法少女モノ」のパロディとしてスピンアウトのOVAなどでリリースする形態はここから始まる。女子向けのフォーマットでおこなうセクシャルな表現が刺激的ということもあるだろうし、何より細かい設定を省略しても成立するフォーマットなので単発の企画には利用しやすかったのだろう。

 他にも、80年代に男性向けアニメとして人気だった戦闘美少女モノ・女性剣士モノにも大きな影響を与えている。あかほりさとる原作のアダルトゲームとのメディアミックスアニメ『らいむいろ戦奇譚』などがそれにあたる。

 これらのパロディの流れを汲み、00年代になると水島努監督による「邪道魔法少女」シリーズが登場。格闘技の天才で世界征服を目論む魔法少女が主人公の『大魔法峠』や、トゲ付きの棍棒を振り回し主人公を3分に一度は撲殺し魔法で元に戻す『撲殺天使ドクロちゃん』など、バラエティー豊かというにはちょっと抵抗のあるさまざまな試みがOVAベースで発表されていく。ここでは「魔法とは何か」、「女性の成長とは少女にとって何か」などの問題は棚上げされ、主に男性向けに製作されている。

 この「魔法少女モノ」の浸透にともなうパロディ化の流れから生まれたのが、『魔法少女まどか☆マギカ』の前身企画とも言える『魔法少女リリカルなのは』シリーズだ。アダルトゲーム『とらいあんぐるハート3』の主人公高町なのはを主人公に据えたスピンアウト企画として登場した経緯は『魔法少女プリティサミー』と同様で、1期の監督を『まどか☆マギカ』と同じく新房昭之が務めている。この『なのは』シリーズが同時期の魔法少女モノのパロディと異なるのは、ストーリー自体は『美少女戦士セーラームーン』に通じるオーソドックスな展開を採用しつつ、ライバルの魔法少女との激突と友情の物語にフォーカスした点が大きい。また、恋愛要素の排除に、男性向けのお色気描写や派手なアクションシーンの追加も特徴として挙げられる。さらには男性マニア好みのギミックとして、魔法の存在が科学的な体系として技術化され、メカと融合した武器となったことから「魔砲少女」と表現されることもあった。

 結果、細部の作りこみは非常に深夜アニメ的でありながら、ストーリーはパロディではない新しい王道として受け止められ大きな人気を集めたのだ。『なのは』は、男性ファンが好む各種のガジェットを詰め込みながら、魔法少女たちの戦いと友情をメインに据えるという構造をとっている。これは男性向けだったバトル漫画の文法を取り入れながら、女性向けの前世の因縁や月の女神の神話などを詰め込んだ『美少女戦士セーラームーン』と相似形になっている。『なのは』は『セーラームーン』の男性向け要素を徹底することで、一種の王道回帰として受け止められたのだ。

 「魔法少女モノ」は、フォーマットとして流通するパッケージとして定着し、女の子たちだけのものではなくなった。魔法少女は技術を習得した少女という現れ方が多くなり、一般人との区別はその技術の有無とされる。とはいえ魔法は魔法少女たちの中では普通に流通するパワーになっており、『ストライクウィッチーズ』のように一種の職業化が見られる。ここでは、元一般人か魔法の血族かはすでに大きな問題ではなく、場合によっては一般とは隔離された異世界を舞台にすることも多い。

 代わりに、男性向けに製作された魔法少女モノアニメでは、女性の処女性を根拠にする神聖化のほうが前景に現れることが多くなる。『ストライクウィッチーズ』では、少女から大人に成長しきると魔法が使えなくなり、『奥さまは魔法少女』では、世界を守るために27歳で結婚もしているにもかかわらず、魔法少女で在り続けるためにキスや肉体関係を拒む姿が描かれている。

■5 『まどか☆マギカ』の問う少女の「魔法」のアリカ

 ここまで、魔法少女モノの成立とその歴史について大まかな流れを説明してきた。魔法少女モノは、少女が成長を経て大人の女性になることへの期待と不安を象徴的に描いた表現形式であり、魔法の力は、出自の特殊性か自らの若さ=可能性を源泉に使われてきた経緯があるのだ。

 『なのは』をほぼオリジナルストーリーで制作し、当時の魔法少女モノの王道回帰として評価された新房昭之監督。彼が脚本に虚淵玄を迎えて魔法少女モノに再挑戦するにあたり『まどか☆マギカ』をどのような舞台として設定し、上記の問題に対しどのような答えを出しているかを見てみよう。

 まず、主人公の少女・鹿目まどかは、一般人の少女。魔法少女になることで課される使命は、魔女の討伐とそれによって得られるグリーフシードを回収すること。そしてその使命をこなすことによって得られる報酬は、自身の延命だ。まずここで特異なのは自らの延命のために永久に戦う使命を課せられる点だ。通常の魔法少女は、第二次性徴期を経て大人の女性になるとともに魔法の力を失うが、対して『まどか☆マギカ』では一度魔法少女になってしまうと作品内での敵に相当する存在=魔女になることが宿命付けられ、逃れる術は基本的にない。人間であることを放棄させられるのだ。

 また、たいていの魔法少女モノの主人公がシリーズ第1回目で魔法少女に変身して人助けなり敵に立ち向かうなりするのに対して、本作主人公のまどかは、最終回まで(ほむらの体験したループ世界を別にすると)魔法少女にならないことも特異な点として挙げられる。

 本作では、少女がたった一個の自分の夢を魔法で叶えること自体が不遜であり、その不遜さ故に自分の願いに復讐されるという「猿の手」的なホラー要素が取り入れられている。この物語世界の中で主人公のまどかは魔法が使えないがゆえに、あらゆる不条理や事件に対して涙を流しながらおろおろと翻弄されるしかなくなる。

 大人の女性になることへの不安と憧れを描き続けてきた魔法少女モノと比較すると、この設定はこれまでの前提を崩すもので、ゴールとしての「魔法を失って幸せな大人になる」が最初から否定されている。そもそもキュゥべえが強調する「契約」という概念は、法律用語で基本的に成人同士が執り行うものであり、未成熟な子供がおこなうべき行為ではない。

 つまり、まどかは物語世界から最初から少女として認められておらず、大人の責任を押し付けられる存在として表現されることになっている。むしろ、まどかの母親でキャリアウーマン・鹿目詢子の、家ではだらしなく、主夫の庇護のもとで甘えつつ会社では化粧バッチリでスーツという戦闘服を着込んで戦っている姿の方がこれまでの魔法少女像に近いとさえ言える。女の子が可愛く見える秘訣として派手な方のリボンをまどかに勧めイメチェンを後押しする姿は、元魔法少女からこれから恋をするだろうまどかへの「魔法の使い方」のレクチャーに等しい。

 第1話で勤務先に向かう詢子とまどかがハイタッチして場面転換し、まどかの登校場面に切り替わるシーンも象徴的だ。

 もちろん詢子の考えているような、恋と魔法の幸せな魔法少女生活をまどかが送ることはできない。そのため、徐々に詢子とまどかの会話は成り立たなくなっていき、詢子は悩みに暮れることになる。『まどか☆マギカ』は、魔法少女モノを標榜しながらも、実は未知のシステムに翻弄される人間そのものを題材にした物語になっているのだ。

 まどかが直面するのはひどく論理的な“男性原理”が支配する世界だ。物語冒頭の巴マミと暁美ほむらの険悪な関係や、グリーフシードの効率的な回収のためという佐倉杏子が街にやって来た理由がそれを象徴する。もちろん言うまでもなく、キュゥべぇの台詞は契約を盾にした大人の見解と真実を伏せた甘言だ。そしてこの高圧的な男性原理の前では、「子供であること」「女性であること」という二重の庇護を受けつつ、魔法でそれゆえの制約から少しの間解放されるというこれまでの魔法少女モノが培ってきたファンタジーも、ただシステムを考えた者の利益に還元されるものでしかなくなる。これは、消費経済の前ではあらゆる夢を与える娯楽も利益を生む仕掛けにすぎないのと同じことだ。もちろん、11話でキュゥべえの言う「たとえば君は、家畜に対して引け目を感じたりするかい? 彼らがどういうプロセスで食卓に並ぶのか」という問いかけも同じ意味を持つ。

 この『まどか☆マギカ』の構造は、ショッキングであるがゆえに、まったく新しい魔法少女モノのパターンと見られがちだ。しかし実際は、魔法少女モノの枠からはみ出る違う原理の物語構造が採用されている。たとえば『ミンキーモモ』シリーズは、あくまで主人公の女の子像の変遷から大人になることの意味を問い直した。それに対し『まどか☆マギカ』は、現代において子供であることや女性であることについての問題を巡るのではなく、人間が社会システムに磨り潰されていく物語なのだ。この非情な世界観において、魔法少女に夢見る少女は大きな弱みを持つ付け込みやすい存在でしかない。まどかは、その弱みを見せないために魔法少女になるという選択を取ることができない。

 つまり『まどか☆マギカ』は、外見こそ『美少女戦士セーラームーン』に連なる魔法少女モノでありながら、内実は魔法少女モノの文脈に則らないキメラ(複数要素の合成)として存在しているのだ。

■6 搾取される女性性と、その自覚が向かう先は?

 『まどか☆マギカ』の内実が異色な魔法少女モノと言えないほど文脈から逸脱していることは、最終回のストーリー展開からもわかる。

 普通の魔法少女モノならば最終的な敵になるはずの舞台装置の魔女・ワルプルギスの夜と戦う理由が無いのだ。ただ「もうすぐやってくる最強の敵」と説明されるだけで襲来の理由などはまったく示されず、最終回にお決まりで現れる「機械仕掛けの神(=デウス・エクス・マキナ)」としての機能を担わされている。ワルプルギスの夜は歴代魔法少女の絶望の集合体なので、それ自体がまどかにとって救うべき対象であり、正しくメインとなるべきはむしろワルプルギスの夜を生んだこの世の条理との対決だ。

 『まどか☆マギカ』におけるこの世の条理は、ここまで一貫して冷徹な論理でチェスをするように少女たちを追い詰めてきた真の敵だ。この難敵に対し『まどか☆マギカ』では、「まどかの願いの力=魔法」で乗り越えるという形で迎える。その魔法がどのように作用して魔法少女たちを助けることになるのかは、「大いなるまどかの愛のおかげ」ということがわかるだけ。実は「機械仕掛けの神」はまどかのことで、ワルプルギスの夜はまどかが真の「機械仕掛けの神」であることを隠蔽するためのダミーなのだ。ダミーだからこそ、ワルプルギスの夜は逆立ちした姿で描かれる。

 ラテン語で「デウス・エクス・マキナ」と呼ばれる「機械仕掛けの神」とは、劇における演出技法の一つだ。古代ギリシア演劇で、劇が解決困難な局面に陥った時に、舞台装置としてしつらえた仕掛けにのって神が突如降臨して一気に赦しの力で物語を解決するという手法だ。

 この演出方法は、これまで積み上げた物語の因果を一瞬で破壊するためカタルシスが大きいが、ご都合主義すぎると批判されることもある。『まどか☆マギカ』では、単なるご都合主義に見せないためにダミーの「機械仕掛けの神」としてワルプルギスの夜を設定し、最強の敵であるという情報を小出しにすることで違和感を軽減させている。

 とはいえ、それまで冷徹な話運びで少女たちを追い詰めた条理をいかに乗り越えるかという時に、予防線を周到に張り巡らせながらも結局「機械仕掛けの神」の演出方法に頼らざるを得なかったのだ。これはそもそも少女の成長物語の類型である「魔法少女モノ」とディストピアのストーリーがひどく乖離していて、同時に解決する方法が最初からないと自覚されていたことを示している。

 元々「魔法少女モノ」でないストーリーを、「魔法少女モノ」の論理で解決できるはずがないのだ。

■7 『魔法少女モノ』ではないがゆえに、男性の等身大の共感も得ることができた『まどか☆マギカ』

 こう考えることで、最終話の最後の数分で突然現れた新たな敵「魔獣」の正体も見えてくる。これまでの魔女は有機的で女性的な丸みを帯びたデザインが多かったが、一方の「魔獣」は白い聖職者のようなローブで統一され、個体差がほとんど無い。そもそも「魔獣」という名前のイメージに反しその姿はどう見ても男性で、頭部は直線的な直方体が組み合わさりCGのような様相を呈している。さらに設定資料集によれば、攻撃方法は手から細いレーザーを出すというのだ。

 この「魔獣」の姿から、本稿で非情なディストピアとして扱ったシステム社会の抽象的な表現を読み取るのは容易だ。

 たとえば武器の手から出るレーザーは、アダム・スミスの『国富論』で語られる神の手(見えざる手)からのイメージだろう。

 「魔獣」という敵の登場で、やっと魔法少女たちは、自らの願いの代償や延命のためだけでなく「みんな」のために戦うことができるのだ。

 本稿はここまでで、『まどか☆マギカ』の内容や作品の問題意識が従来の魔法少女モノアニメとはまったく違うものだということを解説してきた。そこまでならば新房昭之監督の『魔法少女リリカルなのは』も共通するのだが、『まどか☆マギカ』は非人間的なシステムに否応なく飲み込まれていくディストピアを扱った作品であり、魔法少女モノアニメの成果を悲劇的な読み替えで搾取する構造になっていると考察を進めた。

 このディストピアの存在による人間性の搾取は、現在、日本だけでなく世界中の社会人が直面している問題でもある。自らのやりがいや楽しみ、ささやかな願いを叶えるために社会システムに組み込まれ働かされる。そのうちに、自分の意志で参加したはずの社会システムによって自らが摩耗していく。この時のやるせない感覚がそれだ。『まどか☆マギカ』に登場した魔法少女たちは、見事に視聴者である我々の影絵を演じた。そして、視聴者にとっての大きな敵「魔獣」の姿を認識させたのである。

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